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動物にとっては「ボス」であるということ

いくら仲が良い愛犬とその飼い主でも、それは「友達」ではいけません。犬には犬の価値観があります。それは私たちの目から見れば「本能」であったり、「習性」であったりするものです。それらはいわば「動物の本能」といえるものでもあるのですが、私たちとともに「暮らす」ということは、愛犬は少なからず私たちのルールに適応する必要があるのです。例えば、むやみやたらと「人を噛まない」ということはとても重要です。たとえばそれは、犬から見れば「縄張りを荒らした」という行為に対する牽制だったのかもしれません。犬の価値観では当たり前のことなのです。ですが、それが私たちの社会になれば、飼い犬が誰か第三者に噛み付き、怪我をさせるだけで「大事件」です。警察を交えたトラブルに発展します。それは、「あってはならないこと」なのです。

さらには「吠える」ということ。です。集合住宅で小型犬を飼っていたり、また民家が密集する中で庭に飼っていたり、愛犬が置かれている環境はさまざまでしょう。犬は人間に対して「言葉で語って何かを伝える」ということができません。その代わりにさまざまな「行動」で私たちに訴えてきます。「散歩に行きたい」だとか、「お腹がすいた」だとか、「ここに不審者がいる」ということを私たちに伝えるために、まず彼らが出来るのは「吠える」ということです。これは犬の社会では当たり前のことです。危険が察知したことを仲間に知らせるために、さらには自分の気持ちを伝えるために、吠えるのです。

ですが、日本の住宅事情は愛犬がいつでも吠えていいようには考えられていません。吠えればその声は近隣に届きます。それが「夜」であった場合、そしてそれが「不審者侵入」などの緊急事態ではなく、恒常的に、毎日続く場合、その愛犬の属する家族は近隣住民の非難の的になります。それは人間の世界、人間の価値観では「非常識」なことだからです。

犬とともに生活するためには、このようにいくつかの「犬にとっての当たり前」を封じる必要があります。「それではかわいそう」ということであれば、飼わなければいいのです。「自然のままの犬でいさせてあげたい」というのであれば、鎖につないだり、家の中に閉じ込めておくこと事態がナンセンスです。「飼う」ということ事態がすでに自然ではないのですから、「犬と共に過ごす」ということはどのような「責任」がつきまとうかを考えなければいけないのです。

さまざまな犬の「当たり前」を「しつけ」で矯正していく必要があるのです。そのためには、犬と飼い主との絶対的な崩れない関係が必要です。それは「群れのリーダーは誰なのか」ということです。「ボスは誰なのか」ということです。この立場を愛犬に奪われてしまっては、しつけは永遠に不可能です。目を合わせても先に逸らさない、犬のわがままを聞かない。人間社会で「マナー違反」となることを愛犬が行った場合は、とことん叱る。それらのことを繰り返して、オーナーは「ボス」になっていきます。

群れの中ではボスが絶対権力者です。「人間の社会」に適応した愛犬に育てるためには、「自分がボスだ」という錯覚を愛犬に抱かせてはいけません。「ボス」の地位は「飼い主」のものです。譲ってはいけません。

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