banner

 

動物を育てるという責任

人間も動物です。たまたま知能が高く、互いのコミュニケーション能力に優れ、協力しながら、知恵を出し合いながら、人間の社会を発展させてきました。かたや、犬も動物です。猫も動物です。爬虫類も鳥類も魚類もすべて、生きています。その中で人間という動物が他の動物を「飼う」ということは、あまりにもおこがましいことなのかもしれません。人間ほどの知能がないだけで、人間ほどのコミュニケーション能力がないだけで、人間とその他の動物は何が違うのでしょうか。食べて、生きる。その根本は変わらないのです。

動物の営みが「自然」というのであれば、人間も動物なわけですから、自らのために作り上げた環境も「自然」にそうなったといっていいのかもしれません。その中で、その環境に他の動物を引き入れるということは相手の動物にとっては「自然ではない」ということになります。

地球上にはさまざまな動物がいます。それぞれがそれぞれのテリトリーで、その種族にあった暮らしをしています。その中で人間はたまたまテリトリーを広げすぎたのかもしれません。その結果、他の動物たちの生きる場所を奪っているのは確かなのかもしれません。それでも渡したちは動物を飼おうとします。一方で森を切り広く人間がいて、一方でさまざまな動物に囲まれて暮らす人がいます。同じ人間なのにです。

これも私たち人間という「種」が知識をつけすぎた結果かもしれません。人の好みと種としての取り組みは別であるのです。何か「動物を飼う」ということに対してそれを「贖罪」と考える人はいないでしょう。単純に「好き」だから飼うのです。

そのようなことを踏まえつつ、「動物を飼う」という行為について考えてみましょう。犬や猫などの愛玩動物は、「生まれてきたこと自体」が私たち人間の手によるものであることがほとんどです。そのような動物を「飼う」ことは、当たり前です。彼らは人間が飼わなければ行き場所がないのです。

ですから、それらの動物を一度飼い始めれば、寿命をまっとうするまで手放してはいけないということが納得出来るのではないでしょうか。私たちが飼うために作り出した命を、途中で手放すことは、人間という種族として「矛盾」しているのです。自分たちの都合のいいように交配させ、改良してきた。欲しい人がいるので繁殖させて、欲しいので飼うことにした。それならば、その生涯すべて面倒見るべきです。「飽きたので捨てた」ということであれば、あまりにも身勝手なのです。

動物たちが語るための言葉をもっていれば、「人間ほど不思議な動物はいない」と言うのではないでしょうか。ただ「生きるだけ」では「充足しない」というのが人間です。そのような私たちを他の動物たちはどう見ているのでしょうか。

動物を育てるということは、その生き物の生涯に責任を持つということです。幸せな生涯を保証してあげなければいけません。それでなければ、その動物は、その生き物は「なんのために生まれてきたのかわからない」のです。

動物を育てる責任とは、ただひたすら最後の瞬間まで飼い主でいることです。人間にとって自然なことは、他の動物にとっては不自然そのものです。それをいかに理解して責任を果たすか。一度深く考えてみていただきたいのです。

Copyright(c) 2012 ブリーダーとは All Rights Reserved.